二月ほど前、狭心症のカテーテル手術を2回に分けて行って、今更ながらいつどこで命を落とすかもしれない年令になっていることを、身を以て知らされている。
近ごろ、婚活・就活という言葉にちなんで、終活という言葉が持て囃されている。「人生の最期を心残りなく迎えるための準備活動」「自分らしい老後と最後の準備」などのサブタイトルが目を引くハウツー本や、エンディングノートなるものが、書店の棚に数多く並べられている。これらの本を読む気もしないし、真似するつもりもないが、私は私なりの老仕度をしていきたいと思う。
イザという時は、書棚の中央に必要書類を集約してあること、その他はすべて廃棄処分していいとカミサンに言ってはあるものの、それはおカネで買えるモノで、おカネで買えない家族写真や手紙、文章などは残して欲しいとは思う。また、自虐的ではあるものの、ハチの家文学館に少年時代からの想いをたくさん書き綴っているので、そのまま紙にプリントして家族に残せたらいいなと考えている。
さて、私の老仕度、このところ何をやっているかといえば整理整頓である。25年前浜松から、建替え中の現在の自宅に引っ越してきたときは、私と高校と大学の息子二人の3人家族だった。浜松時代は、狭い借家に17年間も住み続けていたので、今度横浜の家に戻るときは、「絶対大きな家に住んでやるぞ!」という意気込みでいっぱいだった。このため、先のことまで考えずに建坪43坪の家をつくってしまった。モノを増やす最初の要因かもしれない。
モノが増えた要因は、私のカメラ道楽などの浪費癖や、生活の便利用品にカンタンに飛びつく性格が禍していることも否めない。また、結婚以来40数年に及ぶ家族の記録や、思い出の品々を箱に詰め込んだままにして整理しなかったことも一因。不用品をこれまで何度か粗大ごみに出したり、廃棄処分をしてきてはいるが、捨てるのは勿体ないからと、しまいこんだままで使わないモノがまだまだある。
新しくてきれいなものは、老人福祉施設や保育園などのバザーなどに寄贈したこともあるが、モノが溢れて何でも安く手に入る時代になってしまっては、意味がないかとやめてしまった。東日本大震災の時も、物資を送ろうと思ったが、どこで何を必要としているかもわからず、おカネが一番喜ばれるだろうと、赤十字を通して寄付をしただけで、モノ減らしにはなっていない。
21年前に今のカミサンと再婚してからは、一人の女性として当然荷物も増える。再婚したばかりの時と比べると歴然である。夫婦二人きりの生活になって、年を取ってきたせいもあり、壊れた家電製品以外嵩張るモノは買わなくなった。また、年金生活に入ってからは、不要不急のモノは買うことがなくなり、今更ながら倹約生活に目覚めた恰好である。
人生の老仕度の話が、モノの整理整頓に終始してしまったが、暇さえあれば昔の写真などを眺めて、往時を思い巡らすことが楽しくもあり面白くなってきた。納戸にしまいこんでいた段ボール箱は、浜松から横浜の新居に引っ越したときのもので、箱には「心を込めてお手伝いサンキュウ引越センター」などと印刷されている。二十数年も経つと箱の色はやや赤茶けて、更に中身は40数年も経っている。人生やれるうちにやれることをコツコツやるだけである。